能登町定住促進協議会

コラム

column

家族6人の移住で、能登の「ゆたかさ」を満喫中。
釣りを楽しみ、自分に合うしあわせを実現する暮らし。

森 進之介さん(もり しんのすけ)

石川県金沢市出身、昭和55年生まれ。美容師、人材採用企業勤務、独立創業等を経て、能登町へ家族6人でIターン。


高校時代の海外ボランティア経験が、仕事観を変えた。

高校2年生の時に経験した、JICAの海外ボランティアで仕事観が変わり、帰国後はアルバイトの選び方も変わりました。それまでは、アルバイトはお金稼ぎという感覚だったけれど、自分の力で役に立ちたいと思うようになり、時給ではなく内容で選ぶようになりました。

その後、縁あって美容師を目指して現場で働きながら学び、21歳まで美容師として働いた後、リクルート社で人材採用の仕事を経験、そこから独立して、学生の就活支援を目的にした会社を起業しました。新卒前後に生じるミスマッチを、インターンシップでマッチングに導く事業をメインに、学生の単発アルバイト派遣でいろんな仕事を経験してもらうこともやりました。

市民コミュニティ講座のNPOを運営。

起業中は、並行して、「タテマチ大学」という市民コミュニティ講座を運営するNPOの活動もやっていました。別の会社と共同で立ち上げた事業ですが、NPOの専属スタッフはおらず、自分も講師の選定から当日の会場設営、パネルディスカッションのコーディネーター役等、様々な役割を兼用していました。両社のスタッフが自社業務の合間を縫ってすべてを動かしていたので、かなり大変でしたが、金沢市の中心部の中でも特に若者のファッションゾーンとして知られる竪町(たてまち)を拠点に、「遊びに来る」じゃなく、「学びに来る」という新しい視点を提供した活動として、大きな意味があったのではないかと思います。今は自分はその活動から離れていますが、「タテマチ大学」は今も続いています。

激務から体調悪化、能登との出会い。

その後、不動産会社の新規事業部署の立ち上げや、デザイン広告の仕事に携わった頃から体調を崩し始め、緊急入院などを経て、「少し休め」と言われることになるのですが、その間に羽咋市役所の高野乗鮮さんと出会いました。その時はスーパー公務員と呼ばれている人物であることも知りませんでしたが、この出会いが、後に能登に移住するきっかけになったかもしれません。

飲み会でご一緒し、神子原米や宇宙人などの話題に面くらいつつ、とにかく高野さんが「能登はこんなにすごい土地なんだよ」と、1時間も語ってくれ、それまで特に興味が無かった能登という土地が印象に残りました。

能登と付き合うほど、豊かさの価値観が変化。

その頃、タテマチ大学の企画で穴水の農家さんたちと縁ができました。彼らを見ているとやんちゃというか、みんなストレス・レスな気がするし、暮らしぶりを見ても、「この人たちは、もしかしたら豊かなんじゃないか?」と思うわけです。いつも仕事で接してきた経営者の皆さんとは何かが違う。自分自身もその頃が一番、家庭の中で父親をしていませんでした。

能登の人たちの顔を見ると、「しあわせだろうな」と感じる。今までの価値観が全然変わってきてしまいました。

さらに別企画で、志賀町の観光プロジェクト「里浜時計」に携わり「ここに住みたい」と思うようになりました。「ここに家があったら、こんな暮らしができるなあ」。

釣りを発見、自分なりの体調好転方法。

さらに北の奥能登と関わった企画が、日本酒の「聖地巡盃」でした。現地に行ったら時間がさらにゆったりと流れていて、食いもんも豊かで、「え?何これ?」という驚きがありました。

それがおととし2014年の11月。その頃にいよいよ体調が悪化し始め、年明けに少し休むことを決めました。

休養中のある日、釣りに行きました。小学校以来の10数年ぶりです。すると、体調がよくなります。能登には小木港という良い釣り場があると聞き、2時間かけて行くと、ますます調子が良い。「どうやらここが、僕が求めるしあわせの価値観が合っている理想的な場所だ」と、まずは家賃の相場を調べようとインターネット検索、そこから今の仕事の話が舞い込んできました。

移住サポート業務をスタート。

とりあえず会って話を聞くと、数日後にはすぐ勤務スタートの話。体調がまだ万全とはいえない感覚でしたが、聞けば移住をサポートする仕事。本当に移住するとなれば僕も最も欲しい情報なので決めました。心配した体調も、結果的には思った以上に動けました。

それは、周囲のサポートと、能登の自然、そして釣りのおかげですね。こっちの人たちは太陽と共に仕事する。夕方5時15分で終わる勤務体制に最初は戸惑いつつ、5時20分には釣りをし始めている日もありました。行くたびに景色が全然違います。流星群の時期の夜釣りでは、流れ星がはっきり、本当にずっとたくさん見えました。彗星、あるいは隕石かと思うほど大きく見えて、びっくりました。また、夜の海に小石をポシャンと投げ入れたら、波紋と共に光が広がり、まるでディズニーの魔法のように海が光る。海ほたるがこんなにいっぱい一面にいることも知りませんでした。

魚が釣れなくても、海を眺めることで体調を整えて帰る習慣になりました。

釣果が野菜に変わる、おすそわけ生活。

ホタルイカが富山湾で接岸する春は、それを掬いに行くチャンスもあるし、少し前はヤリイカがいっぱい釣れていたし、これから春は真鯛が釣れます。こんなに季節を感じる生活をしたことはありませんでした。

釣れた魚をご近所におすそわけすると、今度は野菜などのおすそわけになって返ってきます。家族が越してきた11月からしばらく、家族6人分の野菜をお金で買うことがありませんでした。魚が、野菜やおやつになったり、クリスマスにはイカがケーキになりました。

こっちで友だちになった同い年の釣りの先生もでき、先日とうとう先輩から船を譲ってもらいました。なので最近は、「あ、天気がよくて風がない。船を出せる。でも仕事がある」と、ソワソワしています。沖には行けない船ですが、慎重にやっています。

こっちに来れば好きなだけ釣りができると思っていましたが、旬の時期は限られます。振り返ると、もっと行っておけばよかった。次シーズンこそは、初ものを食べまくろうと楽しみにしています。

移住後の食卓、家族、子どもたち。

こっちに住み始めてから、ごはんがおいしくて太りました。食材が、無農薬だったり自分で釣ったものだし、海草なども、食べると「これは身体が喜ぶ!」という感覚です。身体は非常に健康体になりました。

移住後にうれしかったのは、釣りの先輩からタラをいただき、家族で鍋を囲んだ夜のこと。妻が、「こんなにおいしい体験は初めて」と、大興奮で食べていた。移住後の生活を楽しんでいるのは自分だけじゃないと実感でき、うれしかったですね。 子どもたちは、金沢の小学校とは授業中の手の上げかたなどシステムの細かい違いがあり、最初は戸惑ったようです。でも今は、家族の中で一番最初に起き、朝の登校は友達と待ち合わせして、家族のなかで最初に家を出ます。能登弁も使うようになりました。

町内会にも入り、「松波人形キリコ祭り」の地域なので、人形づくりなどの祭り活動にも参加できそうです。 金沢の友人たちから「不便やろ?大丈夫か?」と心配されます。「何とかぼちぼちやってるよ」と答えてるんですが、実際は楽し過ぎて、時間が足りない毎日です。

能登の人たちは事業家精神。

こっちに来て感じたのは、みなさん事業家や起業家のような考え方の人がすごく多い。足りないお金の分は、何かをして作ったらいいとか、自分で仕事をつくったりがすごく自然です。農業、漁業の人が多いせいでしょうか。

そして、大らかさ。自然相手の仕事をする人が多いせいか、「ダメなものはダメで、しゃあないな」と、そんな感じで受け止めます。そういう意味で、とてもやりやすいです。できない時には「できない」と言えばいい。逆に、こっちが約束の時間に出かけて行っても、「無理やわ」「あ、そうですか。今日の今日でナシですか」もある。だから最初は、あれ?こっちの人はワガママというか好き勝手な人が多いのかな?と思いました。こっちに来てから、あまり気を張らずにやれています。

移住サポート、空き家発掘。

移住サポート業務では、移住希望者のアテンドが年間通してこんなに多いとは予想していませんでした。夏に業務スタートし、ファミリー層のお子さんの夏休み時期が終わったら減るだろう、秋の旅行シーズンを越えたら、雪が降ったらと、結局春を迎えました。ターゲットとしては、環境に共感して来てくれる方のほうが、おそらく定住しやすいんじゃないかと考えています。

当面の問題は、仕事の発掘より空き家の発掘ですね。町の広報等でも、「空き家、困ってます」と町民の皆さんにアピールしているところです。外部から見ると、「空き家が無い訳ないでしょ」ってきっと思うと思います。僕自身も最初は単身で移って来て、3か月かけて住まいを探し、家族を呼ぶ時期は子どもの夏休み明け9月からを考えていたけれど、実際には11月になりました。

木造家屋で夏と冬を越し、僕がいま体験していることは、誰もが移住し始めた時に困ることでしょう。定住に向けたノウハウは、共有していきたいと思っています。